「パン屋も日本文化だ」という脊髄反射は論点を見失っている、という自戒

「アップルパイ」と聞いてどんなパンを思い浮かべるだろう。

俺は地元のパン屋のアップルパイを思い出す。わりと武骨なタイプの、でもけっこう食べたくなる感じの、そういうやつ。別に大しておしゃれでもないし有名でもないけど、あのパン屋は俺にとっての「街のパン屋」だ。誰に否定されようと、それは俺の文化なのだ。

俺は、それを「和菓子は日本文化」という硬直した図式で乱暴に上書きされたことに腹を立てているのであって、「パン屋も日本文化だ」と主張したいわけじゃない。

もちろん、パン屋は日本文化だ。

俺も脊髄反射的にそう反論したし、その傍証を挙げていって日本文化とはなにか、というディベートをしていくことは無限に可能だろう。でも、それは論点を見失っている。パン屋が日本文化かどうかは、俺が地元のパン屋に愛着を持っている気持ちに何も関係がない。

ある人にとってはそれが街の和菓子屋であるかもしれないし、ある人にとっては街のラーメン屋であるかもしれない。それぞれの人に、街に、文化がある。それだけのこじんまりした話であって、そこに「日本文化」というでかすぎる概念を持ち出してはいけない。ぶちこわしだ。

ぶちこわしにされたからぶちこわしにしてやる、という気持ち。そういう、自分の中に潜む邪悪なナショナリズムに自覚的でありたい。