わかりみが深い、と言いたいだけの話

わかりみが深い。

My Early Career Crisis (2014 - 2015) - A painful transition of a fresh PhD from academia to industry, and from selfish open-source to product-oriented open-source - Yihui Xie | 谢益辉

どんなに自分の好きなことをしても許される自由な環境で働いていても、どんなに難しい課題でも自在に解いてしまう高い能力を持っていたとしても、自由自在な働き方ができるとは限らない。 それは、自由が、あるいは自在が、足りないからではなく、むしろ逆だ。どこでも目の前の問題に取り組むだけでそこそこパフォーマンスを出せてしまう人間にとって、自由とは罠だ。落とし穴であり足枷なのだ。

目の前にちょっとした課題が投げこまれれば、誰よりもうまく解ける。誰よりも、というのが言い過ぎであれば、そこそこうまくできる、という程度でもいい。とにかく、できる。できるからやってしまう。 やった結果、誰かに感謝されたりして承認欲求が少し満たされる。悪い気はしない。

難しい問題であってもできる。がんばればできる。できるからといってやりたいとは限らない。限らないけど、できないわけじゃないから困ってるかというとよくわからない。 困っていなければ相談できない。

相談しなければ困っていない。相談するようなことがない人間は、困っていない人間だ。 少なくとも周囲にはそう見えがちで、気付いたとしても本人から相談されなければ何もできない。

そうやって、自分が成し遂げたいことと周囲の期待は、自分がやっていることは、どんどん乖離していくことになる。

No commitment, no responsibilities, no guarantee. While the freedom could make the developer fairly efficient sometimes (no pressure), it is harmful in the long run. You will be at best successful with a handful of things in a rather narrow field.

では自由から逃れるにはどうすればいいのか。自分で自分を狭めるには。 それは、宣言だ。「俺はこれをやりたい」と、世界に対して叫ぶだけでいい。

「誰でもねえよ…ただ俺の魂にだ!」

という感じで誓いを立てるタイプの人もいるけど、大概の場合、世界に、というのはまあ、現実的には上司とか友達とかそのあたりに向かってやることになるだろう。 ユーチューバーであればカメラに向かうのかもしれない。

相手が何であっても、宣言というのは内向的な人間にはとてもハードルが高い。 何が好きなのか、何を憎んでいるのか、どういう夢を持っているのか。それを言うことで相手にどう思われるのか。 自分がどういう人間か宣言するのは、「あんな人間かもしれない、こんな人間かもしれない」という余地を捨てることだ。 宣言しなければあの人に嫌われないかもしれないし、宣言しなければ自分はもっとすごい人間になれるかもしれないし、 あるいは、何者にもなれなかったときにあれこれ言い訳できるかもしれない。 そういう無限の可能性を捨てることだ。

そんな大げさなものじゃないだろう、と人は言うかもしれないけれど、俺にとってはわかりみが勝手に海のように深い。