「選挙に行かない自由もある」と言うことはポリティカリーコレクトではない、というだけの話を書こうとして思い出した話

炎上しているこれ。

主催者は、棄権を呼び掛けているわけではない、と言うけれど、俺は心が汚れているので「声を集めて」とか「問い直したい」みたいなフレーズを見ると呼び掛けているようにしか思えない。

「選挙に行かない自由もある」という言葉は、正しくないかもしれないが、「選挙に行かないやつは人間ではない」みたいな、人間性を人質にする脅迫よりはずっと共感できる。

現実として、投票権を持っている人間の半分近くは投票に行ってない(参考:総務省|国政選挙における投票率の推移)わけで、選挙に行かないという選択をしてしまうのは正常な判断力を失っているからではないだろう。何かを天秤にかけた上で「選挙に行かない」という方を選び取っているわけで、そこにはきっとストーリーがあり、想いがある。もちろん、「投票日が気づいたら終わってた」みたいなのもあるとは思うけど。

そういう社会のディテールを消し去ろうという圧力が、世の中のそこかしこにある。その息苦しさに抗おうとすること自体は間違ってないと思う。

でも、「選挙に行かない自由もある」と声高に叫ぶことはまずい。意図がどうであれ、明らかに選挙に行かない人間を増やす方向に作用する。

そもそも、人間性を守ろうという試みは往々にしてポリティカリーコレクトではない。「こういう人間もいるよ」という内容が「世の中はこうなるべきだ」と誤読されないように細心の注意を払う必要がある。例えば、記憶に新しいところだと、「9月1日学校に行かなくてもいいよ」というメッセージは、「学校なんてくだらない、世の中から消えるべきだ」という意味ではない。そこを取り違えるととんでもないことになるだろう。

こういう話を考えるときいつも思い出すのが、宮本常一が「庶民の発見」の序文に書いている敗戦前後のエピソードだ。当時、宮本は中学校の先生だった。

生徒たちが敗戦の日に失望しないように、戦争の状況についてよくはなし、また戦場における陰惨な姿について毎時間はなしてきかせた。生徒たちは熱心にきいてくれたが教室の外ではあまり他人にははなさなかったらしい。私は憲兵にも警官にもとがめられることなくして済んだ。別に口どめしたわけではなかった。ただ、これだけのことは言った。「私たちは敗けても決して卑下してはいけない。われわれがこの戦争に直面して自らの誠実をつくしたというほこりをもってほしい。それは勝敗をこえたものである。そしてまだ私たちはこのきびしい現実を回避することなく、真正面から見つめ、われわれにあたえられた問題をとくために力いっぱいであってほしい。そういう者のみが敗けた日にも失望することなく、新しい明日へ向かってあるいてゆけるであろう」—この言葉はあやまっているかもわからない。しかし私はそんなふうに説かざるをえなかった。

 自らを卑下することをやめよう。人間が誠実をつくしてきたものは、よしまちがいであっても、にくしみをもって葬り去ってはならない。あたたかい否定、すなわち信頼を持ってあやまれるものを克服してゆくべきではなかろうか。
 私は人間を信じたい。まして野の人々を信じたい。日本人を信じたい。日常の個々の生活の中にあるあやまりやおろかさをもって、人々のすべてを憎悪してはならないように思う。たしかに私たちは、その根底においてお互いを信じて生きてきたのである。
宮本常一「庶民の発見」)

ここで宮本常一自身が「この言葉はあやまっているかもわからない」と書いていることの重みを感じなくてはならない。誤っていると分かっていてもその言葉を言わなければならないときがある。しかし、「私たちは戦争でがんばったので誇りを持とう」という文章を教科書に載せる、みたいなことは端的にまずい。

この微妙さを、メッセージングを誤れば人が死ぬという紙一重さを、このインターネットの時代に生きるからには肝に銘じたい。

庶民の発見 (講談社学術文庫)

庶民の発見 (講談社学術文庫)